2011年4月8日金曜日

『いのちの種』

私は、足掛け30年の坐禅の実践者ですが、今回の震災ほど応えたことはありませんでした。普段の生活の中では、頭の中は空っぽ、良く言えば瞑想状態。直観で閃き、そのまま行動するタイプの人間で平穏な生活を享受してきました。 

それが、あの大津波に何もかもが飲み込まれる映像とその後に残された瓦礫の跡を見せ付けられ、それが頭から離れなくなったのです。それに、福島の原子力発電所の爆発事故が追い討ちを掛けました。 

首が廻らなくなり、肩が硬直し、腰を曲げられなくなり、食欲がなくなり、寝られなくなるという嘗て経験したことのない体験をしました。どうしようもなく打ちひしがれた自分を体験したのでした。これが、2週間以上続きました。 

今、振り返ると、あれはショックでカラダの血の巡りが止まってしまったのだろうと思います。今でも少し首の廻りに後遺症が残っていますが。実際に震災に会われた方々は如何ばかりかとお察しします。

立ち直るきっかけは、1歳半になる孫の無邪気な笑顔を見た時からです。 
天真爛漫とはこのことを言うのだなと思いました。苦虫を潰したような爺さんの顔を見ても微笑むのです。両手を上げて抱っこしてと駆け寄って来ます。思わず、あっはっはっは!そうかそうかと抱き上げて、赤ちゃん言葉で、フムフム、ヨカヨカ、ホガホガと言って、ほっぺとほっぺを触れ合ってじゃれ合っていました。

これだけで、肩の力が抜け、それを見ていた周りの家族の顔顔に微笑みが浮かんでいました。一瞬にして天国が生れたのです。心の空白に、『いのちの種』が芽生えた瞬間でもありました。 

そして、この言葉、「本来無一物」が脳裏に浮かびました。 
中国禅宗の六祖慧能(えのう)の言葉です。 

本来無一物とは、人間、生まれながらに自分のものというものなど何もない。罪も汚れもない、他人と自分という差別もない。それでいて、全てが自ら備わっているのだよという意味です。

現実には、何故私だけがこんな目に会うのだろうかとか、誰かが誰かを恨んだり憎んだり、不足を言って満たされなければ更に不満が募る世界です。それが、小さなことで満たされている自分にふと気がつくときがあるのですね、そして、人も自分も同じなのだということに。

今回の東日本大震災、これ以上の苦難はないでしょう。どうしたらいいか分らない状態です。それでも、日本国中、いや、世界中から応援の手が、誰も助けてくれと言われる前から集まっています。救援隊が駆けつけ、食事が運ばれ、暖を取るための機材が運ばれ、避難所が営まれています。 

何故でしょうか?黙って見ていられないのです。善意だとか慈悲の心だとか、そんなのでなく、体が自然に動いてしまうのですね。 

「本来無一物」、こうした行動が何もないところから生れるのです。心配は要らないのです。人間、お互いに助け合うようになっているのだから。自分の為とか、人の為とか、他人に良く思われようだとか思ってやっている訳ではない。それが本来の人間の姿。今、この大震災を前に、日本人全体がこの事を学んでいるのだと思います。そして、その一部始終を世界中の人々が見ているのです。 

21世紀、人を押しのけ自分だけ良ければいいという競争社会、あれも欲しいこれも欲しいという物欲の世界から、生きるのには最小限のものがあればいい、余分な欲に苦しまない、多くの人々と共に幸せを感じる世の中になるのではないだろうか。小鳥も虫も草花も、明日の食べ物に悩んだりはしないのだから。 

無邪気な何も求めない「微笑」。これが、全ての救済の『いのちの種』になる事を確信しています。普段のままでいい、何も頑張らないでいい、今出来る事、それだけでいい。 


4月8日は、ブッタの聖誕祭。別名、お花祭りとも言う。 
今年の桜は、かなり遅れての開花ですが、今週あたり満開となるのではないでしょうか。パッと咲いて潔く散る姿に、日本人は何故か惹かれるのですね。やっと、元に戻ったゴンジも桜の花に癒されています。 


ゴンジ
 

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